SINCE 24/03/2002 No.114 17/07/2003

  天才キット世界を撮る 第114号より

第2巻・アイスランド篇
氷の国の一人旅
−その11−
Presented by Kit Takenaga 
スコガの滝を後にしてレイキャヴィクへの帰途につく。
しばらく走ると、このような山裾の道は途切れ、再び原野の中に戻る。
第2章 氷原の一歩
(1) 南海岸を行く (続き)

原野の孤独
 スコガの滝を後にしてしばらく行くと、車は山裾を離れふたたび原野の中に戻る。かなり薄暗くなった今、ただでさえ交通量が少ない国道には、もうほとんど行きかう車はない。このまま地平線の彼方に吸い込まれてしまうのではないかと思わせるような、一直線の道をただひたすら走る。ときどき思い出したように、はるか遠くにヘッドライトの小さな輝きが出現すると、それが近づいてくるまでが待ち遠しく感じられてしまう。見渡す限りの白い原野に、ボクらだけが置き去りにされたのではないかというような心細さが、それでずいぶん慰められるからだ。

 アイスランド・テレコムで営業職を務めるクリスは、顧客回りのためにこういうドライブを週に1、2回はやるそうだが、慣れている彼でさえ冬場のドライブは気が滅入るという。完全に暗くなり、周りの景色が見えなくなってからの帰途はまだいいが、朝、目的地に出かけるときのドライブはうんざりだそうだ。ほとんどの場合単独行なので、余計にそう感じるらしい。出先でどんなに遅くなっても宿泊せずにレイキャヴィクに戻るのは、明るい昼間に運転したくないからだ。

牧場の柵と電柱の列、そして、ときどき姿を現す農家だけが、この広大な原野に人間の存在を教えてくれる。人影はただの一人も見かけない。
 今日のドライブはクリスと二人だし、なおかつ、アイスランドの原野を見るのが初めてのボクにとってさえ、代わりばえしないこの原野ドライブはきついものだった。助手席で緊張感がないということもあるのだろう。まだ景色が珍しく、撮影ポイントを探してあちこちに目を走らせていた間は興奮状態だったが、行けども行けども同じようなまっ平らな原野を走り始めると、エンドレスのビデオテープを眺めているのと同じで、撮影したくなるようなま新しい景色は展開しなくなる。
 そうなると、つい気持ちが内に向いてしまう。あまりに広大な自然と、その中にあって動くものは自分たちの車だけだという現実に押しつぶされそうになるのだ。孤独感と心細さ、それに、もし万一車が故障したり事故ったりしたら、この誰もいない原野でどうなってしまうかという不安感が心の中にわきあがってきて、それを鎮める努力を始終強いられる。

 思いは同じだろう。二人とも自然に口数が多くなってくる。
 クリスによると、冬場のドライブの退屈さとは逆に、夏場のドライブは昼間に限るという。国中がお花畑になるからだ。夏と冬、日照時間の違いだけではなく、これが同じ国の同じ場所だとは信じられないほどに景色も変わるそうだ。
 「キットもぜひ、夏のアイスランドを見に来い。他の国では絶対に見られない景色だぜ」
 と、クリスはいう。特に、北極圏に程近いアクレイリ周辺の景色は絶品だそうだ。この国第二の都市なのだが、フィヨルドの奥に位置し、周囲を山が取り囲んでいるので、レイキャヴィクとは景色も雰囲気もまったく違うという。
 この話を聞いたときにはそれほど心が動くことはなかったのだが、結果的にはクリスの勧める通りになった。今回の冬の原野の印象があまりにも強烈だったので、その正反対とクリスが言う夏の景色が見たくなったのだ。頭の中で空想した景色が時と共にだんだん膨らんでいって、実際にこの眼で見てみないことには納まりがつかないような気持ちになってしまったボクは、半年後、この年の7月にアイスランドを再訪することになる。

今にも巨大な岩石が転がり落ちてきそうな崖の下に農家と畜舎が建っている。農家の窓に灯りが点っているが、人影はない。
フィルムを増感しているので、赤茶けた色被りが出ている。
アイスランド人の名前
 クリスがアイスランド人の名前の話をしてくれた。
 クリスの本名は言うまでもなく「クリスチヤン」だ。ここまではいい。しかし、一般に苗字と言われているものを彼は持っていない。苗字、あるいは家名と言ってもいい。つまり、クリスの一家が先祖代々伝えてきた「家」「一族」の名前がないということなのだ。
 彼に手紙を書くとき、ボクは宛名を「クリスチヤン・ハトルビヨルンソン」と書く。当然のように、「ハトルビヨルンソン」というのが家名だと思っていたのだが、これは単に、同じクリスチヤンという名前の他人と彼とを区別するだけの、言わば符号でしかないのだ。日本語に直せば「ハトルビヨルンの息子の」という意味だ。つまり、彼の親父の名前が「ハトルビヨルン」だと言っているに過ぎない。

 このように、アイスランド人の名前は「本名+親父の名前+ソン」という構造になる。英語のson(サン・息子)がここではson(ソン)になるわけだ。女性の場合は、英語のdaughter(娘)に相当するdottirという接尾語をつける。したがって、彼に姉妹がいるとすれば、彼女たちの名前には「ハトネビヨルンドッテル」という第2名がつくことになるわけだ。同じように、クリスの今の奥さんは、親が付けてくれた名前はオルガだが、第2名はクリスと同じではなく「オスビフルスドッテル」という。「オスビフルの娘の」という意味になるわけだ。
 彼の一家は彼と奥さんと子どもが4人(男の子1人、女の子3人)の6人家族だが、彼は「ハトルビヨルンソン」、奥さんは「オスビフルスドッテル」、子どもは男の子が「クリスチヤンソン」、女の子たちは「クリスチヤンスドッテル」という、それぞれ別の第2名を持っていることになる。
地平線の先に海面が帯のように見えている。遮るものがないまっ平らな原野だし、空気が澄んでいるのでかなり遠くの海も、見た目には非常に近い。浮かんでいるのはヴェストマン諸島。沿岸から20キロはある島々だが、この曇り空でもはっきりと見える。
 もちろん、戸籍上はこれらが立派な名前なのだから、このソンなりドッテルがついた部分を苗字と考えれば「苗字がない」というのは言い過ぎかもしれない。しかし、ボクらが考える苗字というものとはずいぶん違う。ボクらにとって苗字とはイコール家名であり、ご先祖様から連綿と受け継がれてきた一族の証でもある。ボクの苗字をたどれば、一族が江戸時代前期には九州天草の海賊だったし、その何代か前は新潟かどっかで勢力を誇っていた海運業者だったというのが分かるという仕組みだ。だが、この国にはそうやって家名を伝えるという伝統がない。ごく一部に、海外から移住してきた一族がいわゆる家名というものを持っているらしいが、現在では伝統的な命名法以外は法律で禁じられているので、海外に習って一族の名前を苗字にしようという動きは封じられているそうだ。

 この国は、人口爆発の時代である現代ですら人口が28万人しかいない。前にも述べたが、1901年には首都でさえ人口が5000人しかなかった国だ。したがって、わざわざ苗字を名乗らなくても、第1名だけでどこの誰かが容易に判別できた長い歴史がある。実際、今でも人々は、仮に初対面であっても、どんなにフォーマルな席であっても第1名だけで自己紹介するし、その名で互いに呼び合うそうだ。ほとんどすべてのアイスランド人は、元を正せば海賊か奴隷が先祖であり、しかもその先祖はわずか数名に過ぎない。つまり、28万人が全員親戚みたいなものなのだ。

 もう一つある。人口わずか28万人で一つの国家を運営していこうとすれば、子ども以外はまず遊んではいられない。一つの国の体裁を維持していくためには、そこには様々な役割や職業を担う人材が必要になるわけだが、労働可能な人口はせいぜい10万人ぐらいしか存在しないのだ。圧倒的に人数が足りない。 そこでどうするかというと、わずか15年ほど前までは、政治家や芸能人、芸術家など、片手間仕事でできる職業の人々は、ほとんど本職を持ちながらそれをやっていたのだ。今でも、2つの職業を掛け持ちしている政治家は大勢いるし、たとえば有名な俳優が本職の大工の仕事を続けていたり、著名な作家が漁師だったりということが日常茶飯事だそうだ。
 そういう社会なので、いわゆる「階級意識」というものがこの国にはない。これが「家名」を必要としないもう一つの理由になっている。実際、クリスはいつも泳ぎに行くプールでしょっちゅう大統領や首相と会うという。会えばお互いに「ハイ!」と挨拶するし、時には泳いだ後に一緒にお茶を飲むこともある。彼らは「クリス」と呼ぶし、クリスは「オラフル」「ダビッド」と呼ぶ。国民全てが互いの間に壁を作らない社会では、「どこの誰それ」というレッテルは邪魔物以外の何ものでもないというわけだ。

氷の原野に点々とアイスランド馬たちがたたずんでいる。人懐っこい馬たちなので、下手に車を降りて柵に近づくと、はるか彼方からも気配を察して寄ってくる。


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